【エッセイ】『トランスジェンダー入門』を読んで自分のノンバイナリー自認について考えた 周司あきら、高井ゆと里著『トランスジェンダー入門』(集英社新書)を読むことで、自分がノンバイナリーなのかどうかについて少し考えを進めることができました。それらを書き起こしてちょっと整理しておこうと思います。このような読み方は本書が想定する主流なものではないでしょうから、そのことを申し訳なく思います。トランスジェンダー当事者が直面している困難や不当な状況は、法整備と社会の後押しによって解消されるべきものであり、わたし自身は生活上のあらゆる政治的な局面においてこれを倫理規範の一つとして抱え、それに則って行動するよう努力し、また、当事者の現状と自分の認識が乖離しないように努める、と言明しておきます。 トランスジェンダー入門 (集英社新書)著者 : 周司 あきら, 高井 ゆと里価格 : ¥1,056ISBN-10 : 4087212742ISBN-13 : 978-4087212747出版社 : 集英社発売日 : 2023/7/14 ここ二年くらい性自認が定まらないでいます。「自分はノンバイナリーだ」、「ノンバイナリーかもしれない」、「でもこの人の言う“ノンバイナリー”に自分は含まれてないな」、「ノンバイナリーと公言するとこんなふうに捉える界隈もあるのか。わたしの自認や実感とはだいぶ違うんだけど」、「それとも単に性役割規範になじめないだけのシスジェンダーなんだろうか」といったポイントをランダムに再訪してばかりです。わたしが出生時に割り当てられた性別は男性で、医学的な移行はなく(毛髪や体毛や体型や振る舞いから過剰な男性らしさを抜こうとしてるくらい)、Web上のごく一部の空間を除いては社会的にも行政的にも男性のままです。けれども男性として行動しなくてはいけない場面や男性とみなされたりする場面には違和や嫌悪を感じますし、その感覚はだんだんと繊細になっています。場面ごとに、自分が人間から男性のあいだのグラデーションのどこに配置されてしまっているか、どんな振る舞いがその配置を変えていくのか、それらについての把握がすこしづつ精細さを増してきた、と言い換えられるかもしれません。マスキュリニティを脱色しようと試行錯誤し、ホモソーシャルからは距離を置くことを旨としていますが、同時に「あ、いま自分から無意識に男性をやっていたな」という気づきもしょっちゅうあります。諦めることがストレスにならない程度の違和から圧倒されてしまうほどの嫌悪まで、相手や場面や自分のコンディションに応じてさまざまな抵抗を「男性であること」に感じます。 男性を完全に辞めたいわけではありません。わたしの持つ倫理や社会全体の功利、わたし自身の快適度を天秤にかけて、この場面この関係においては男性をすることが最適だと納得できれば、限定的に男性をすることに異論はありません。男性(や女性)であることが不変で本質的なアイデンティティと見なされ、常に男/女のどちらかに分別され、それに従って行動もコミュニケーションも欲求も(とてもくだらなく見えるものに)誘導され、それらをすることでそれらの規範の再生産装置にもされてしまい、逸脱者と見なされれば徐々に社会的な疎外や覇権的コミュニティからの攻撃にさらされていく、巨大で絡まり合って目的化しているこれらの全体(ポール・B.プレシアドなら「ポスト植民地主義的でバイナリな異性愛家父長制」と呼ぶでしょうか)が嫌なだけです。ほんとうにときどきはリラックスして自覚的に男性をしている場面もあるのですが、それは「あー、箪笥ふさぎだったこの服の最適な着こなしは、こういう場面のこういう組み合わせだったか」に似た感覚であって、「本当の自分」を発見したような感覚では全くないし、これを部屋着や普段着に採用したいとは思いません。とはいえ、いまのところ外見や言動に軽く触れただけでわたしを「男性ではない」と思うことは不可能だと思います。 さて、ノンバイナリーだと自信をもって自認できないでいた一番の理由は、「わたしは性役割規範になじめないだけのシス男性なのではないか」という疑問です。わたしはジェンダー・ノンコンフォーミングかつシスジェンダーなのか、それともノンバイナリーなのか。疑問の解消を求めてエリス・ヤング『ノンバイナリーがわかる本』(明石書店)や、プレシアド『カウンターセックス宣言』(叢書・ウニベルシタス)を読んでみましたが、前者からは現在のノンバイナリーに関する包括的な概説を、後者からは現行の極度にバイナリでポスト植民地主義的な異性愛家父長制社会を根底から解体していくラジカルな議論を学ぶことができたものの、わたし個人の疑問を解消するようなものを発見することはできないでいました(これはわたしの読解能力の低さゆえかもしれません)。 (ちなみにノンバイナリーと自認できないでいた二番目の理由は一番目の理由とかなり被っていて、「医学的な移行、それもコストやリスクが高くて不可逆であるような移行をしている人こそが“真の”ノンバイナリーであって、それを伴っていないノンバイナリー自認は“広義の”ノンバイナリーに過ぎず、ジェンダー・ノンコンフォーミングかつシスジェンダーとの間に本質的な区別はないのではないか」というものです。この疑問が真だとすると医学的な移行が不可能な時代や状況ではノンバイナリーが存在しないことになってしまうので、これは間違いなんだろうと思います。また現実には医学的移行の多くは可逆的なものである上に、技術の発展によって今後ますます移行の可塑性は高くなっていくように思われます。「不可逆」と書いてしまったのは、ジェンダーを「移行し続ける旅路」としてではなく「バイナリな本質」と捉えているということでもありますから、この疑問は現在の性差の体制から植え付けられた偏見かもしれません。) と、性自認に関してはそんな状況だったところで『トランスジェンダー入門』を読んで、次の一節に出会いました。 これまで何度か、生まれた子どもは性別を割り当てられると述べてきました。この「割り当て」という事態は、子どもに二つの「課題」が与えられることとして理解可能です。 一つ目は、「女の子として/男の子としてこれからずっと生きなさい」という課題。 二つ目は、「女の子は女の子らしく/男の子は男の子らしく生きなさい」という課題。 『トランスジェンダー入門』 p.35 「性別の割り当て」は「二つの課題」として言い換え可能だ、という指摘です。第二の課題はジェンダー・ノンコンフォーミングなわたしにとっておなじみのものですが、第一の課題についてはいままで意識したことがありませんでした。この二つの課題を使って自分がノンバイナリーなのかどうか考えていこうと思います。 まず、二つ目の課題に対するわたしの違和は強いです。個人的な感覚とは別に、社会的に見てもほとんどの性役割規範はポスト植民地主義的な家父長制システム、つまりは現行の政治と経済の動かし方や担い手の基盤を強化するという、ただそれだけのために多大なものを浪費しているように見えます。マクロには功利と富の壮大な無駄であり、ミクロには違和と嫌悪ばかりもたらしている、というのが二つ目の課題へのわたしの感想です。 しかし二つ目の課題に対する違和はシスジェンダーの人間にも多かれ少なかれあるものでしょうから、これだけを理由に自分がノンバイナリーであると言うことは、わたしにはできません(一方でわたし以外の誰かが、これを理由にノンバイナリーと自認したとしてもわたしは構いません。本人がまだ言語化や認知できていないものが隠されているのかもしれないし、ジェンダーやセクシュアリティが流動する兆候かもしれません。また将来的には、現状におけるジェンダー・ノンコンフォーミングかつシスジェンダーくらいの人間でもノンバイナリーと自認したり、行政的/社会的/医学的な移行を気軽に試したりできる方が、自分のジェンダー・アイデンティティを低コストかつ低リスクに旅路として経験できて、他人と親密な関係を築きやすくなり、ポスト植民地主義的でバイナリな異性愛家父長制の解体が進むので、社会全体の生産性や幸福の総量が高くなるように思います)。 ということで、二つ目の課題からだけではわたしはわたし自身をノンバイナリーと確定できないので、一つ目の課題を見ていくことにしましょう。わたし自身は出生時からこれまでずっと男性を割り当てられている、というのは既に書きました。この男性の割り当てを生きてきたことについて感想を言えば、「性役割規範やホモソーシャルには嫌悪ばかり感じるけれど、女性になりたいわけでもないし、とりあえずこれまで生存はできてきたし、他に整備された道もなく、無理して荒野を行けば抱えきれないような負債とリスクがのしかかってきてしまうようだから、しょうがなくずっと歩いてきた」くらいの感覚です。言い換えれば、「自分は男性である」ではなく「自分は男性になった」でもなく、「自分は男性をしてきた」という実感を持って生きています。そういう実感をもった人間として一つ目の課題、「女の子として/男の子としてこれからずっと生きなさい」を読むと、「これからずっと」という部分に強烈な違和を感じます。いままでそれをしてきたことと、これからもそれをすることの間に、一体何の関係があるのでしょうか。 「これからずっと」への違和を別の視点からも説明してみましょう。アナロジーが許されるなら、「男の子への割り当て」と「これからずっと男の子として生きなさい」の関係は、出生時に「日本国籍を取得すること」と「これからずっと日本人でいなさい」の関係のように見えます。わたしは生まれたときから日本国籍のみを所有し、これまでずっと日本人として存在してきました。けれど、「日本国籍を所有しているのだからこれからずっと日本人として生きなさい」という課題を与えられたとしたら、その論理の飛躍に混乱してしまいます。誰が出生時に日本国籍を取得しているかを決定するのは国籍法であり、そして「誰が日本人であるのか」を決定するのは法でも本質でも自然でも血統でもなく、もっとぐにゃぐにゃの、社会と政治と慣習の混じり合った、多くは恣意的で根拠の薄い判断です。このような社会的構築物にすぎないものが、なぜか不変の本質のような顔をして国籍法の後ろに続いてくるとしたら、たくさんの人が違和を感じるのではないかと思います。わたしはそれと似たものを「女の子として/男の子としてこれからずっと生きなさい」に感じるのです。これはまた、「男の子への割り当て」における“男の子”と、「これからずっと男の子として生きなさい」の“男の子”に、「日本国籍(のみ)を取得していること」と「日本人であること」の違いに似た質的な差を感じる、ということでもあります。 まとめれば、わたしは、いま男性であること(わたしの感覚としては「いま男性をしていること」)」のうちに「未来も男性でいなければならない(男性をしていなくてはならない)」という課題が含まれていることを、実感することも賛同することもできないし、そもそも出生時の割り当てという事象に「これからもずっと」という課題が含まれていることに対して、本質的でないものを本質化しているような詐術を感じるのです。 では、ここまで書いてきたものを根拠にするなら、わたしは実生活上のどんな場面でノンバイナリーという自認/自称を使用可能/すべきなのでしょうか。 明確に自称すべきなのは婚姻の場面です。というのも日本では法的に同性婚が承認されていないからです。 『トランスジェンダー入門』の第5章では、特例法(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律)について頁が割かれており、日本の民法において同性婚状態が認められていないために、戸籍上の性別の変更には「現に婚姻をしていないこと」が条件の一つになってしまっていることが解説されています。「男と女」として婚姻したどちらかが性別を女か男に変更してしまうと、婚姻関係が同性婚状態となってしまうからですね。わたし自身は「これからずっと」を課題として賛同できないので、「婚姻後も行政上男性で居続けること」にも賛同することができません。賛同できない上での婚姻の自由はわたしも有しているでしょう、しかし現行法上、婚姻の相手や近しい親族にはそれを打ち明けるのがフェアな態度となるでしょう。また、その場合は性自認としてノンバイナリーという言葉を使用するのが適切かと思います(ただし、わたしは親密な関係を構築できていない相手と婚姻関係を結びそうにはないし、自分に「男性」を求める相手とは親密になりたくないので、婚姻が具体性を持つはるか以前から自分の性自認についてパートナーと共有しているでしょうけれど)。 というわけで、『トランスジェンダー入門』を読みながら自分の性自認について考え、ノンバイナリーと自認し周囲と共有すべき場面を一つ特定できたことまでを書きました。読んでくださった方にとってこれらは特に目新しいものではないでしょうし、わたし自身もどこかで読んだことの寄せ集めのように思います。それでも書き終えてみると他にはない満足感があるので、おそらく、わたしにとってはこれを書いてWeb上に置くことが、わたし自身の社会的な性別移行プロセスの小さな一歩になっているのであり、それが特有の満足感(と不安)をもたらしているのでしょう。『トランスジェンダー入門』の第2章には医学的な性別移行についても解説がなされており、そこにある「女性化していく場合」のリストを眺めてみると、収入が安定すればすぐにでも試そうか、というものや、ちょっとコストやリスクを検証しとこうか、というものがちらほらとありました。ですので、今後はトランスジェンダー的な性別移行プロセスも(可塑性のある身体の可逆的なプロセスとして)一、二歩進める可能性が高そうです。 わたしにとって「男性」はいまのところ、生まれつき義務付けられていて転職がほぼ不可能で、そのうえ違和がすごいし効率も悪いしで全くやる気の起きない職務でしかないものが、なぜか身分として世間的に浸透している、といった感じのものです。それでいてちょっとしたサボタージュ程度の抵抗しかできていませんが、ゆくゆくは「男性」がジェンダー・アイデンティティの旅路(というよりは人生全般の旅路――なぜなら「ノンバイナリーのわたし」は、ジェンダー・アイデンティティというカテゴライズ自体が本質と見なされなくなり、限定的な場面でのみ存在するようになることを理想としていますから)におけるトランジットや友人や博物館くらいに見えるようになればいいな、と願っています。 トランスジェンダー入門 (集英社新書) Kindle版著者 : 周司 あきら, 高井 ゆと里価格 : ¥1,056ASIN : B0CBPJV63S出版社 : 集英社発売日 : 2023/7/14 ※価格は変動している場合があります。 ノンバイナリーがわかる本 ――heでもsheでもない、theyたちのこと 単行本著者 : エリス・ヤング翻訳 : 上田 勢子価格 : ¥2,640ISBN-10 : 4750353272ISBN-13 : 978-4750353272出版社 : 明石書店発売日 : 2022/1/10 カウンターセックス宣言 (叢書・ウニベルシタス 1149) 単行本 著者 : ポール・B.プレシアド翻訳 : 藤本 一勇価格 : ¥3,080ISBN-10 : 4588011499ISBN-13 : 978-4588011498出版社 : 法政大学出版局発売日 : 2022/9/6 他の書評 投稿ナビゲーション 【書評】『馬鹿たちの学校』サーシャ・ソコロフ