【書評】『馬鹿たちの学校』サーシャ・ソコロフ

 宣伝文の〈言語の破壊と創造による絶後のポエジー〉は、ありがちな誇大広告に見えますが、この小説に限っては単なる事実です。厳しい審美眼を持つことで知られるナボコフが絶賛した伝説的第一長編が日本語で読めることの喜びをすべての日本語母語話者が謳い上げてほしい。翻訳はペレーヴィンやクルジジャノフスキィ、ゴーゴリ『死せる魂』の新訳などで知られる東海晃久。


馬鹿たちの学校 単行本
著者 ‏ : ‎ サーシャ・ソコロフ
翻訳 ‏ : 東海 晃久
価格 ‏ : ‎ ¥2,640
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309205534
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309205533
出版社 ‏ : ‎ 河出書房新社
発売日 ‏ : ‎ 2010/12/14

※価格は変動している場合があります。


 夢が文字だった。言葉は現実への従属から自由になり、けれど意味を手にしたままで、彼らの論理――引用や音韻、そのほか自在な言葉遊び――でほしいままに連なっていく。夢を見るわたしは読んでいるのかそれとも文章それ自体なのか、そんな判別なんてもうどうでもいい。文章は川、語は魚や虫や花びらで、彼らはちらりちらりきらめきながら行き来し、群れなし、はぐれ、うなり、舞い散り、去って、いつか戻ってくる。

 数年に一度の爽快な夢。これにくらべれば日常で目にする文章なんて、現実という独裁者が押し付けるスラムの泥道だ。わたしはこの読み心地を、この夢を見るようになる以前から知っている。『馬鹿たちの学校』が先導してくれたのだ。

 男の子がふたり喋ってる。過去のこと、いまのこと、これからのこと。彼らの時間は壊れていて、だから彼らの喋ることは「すでに起こる」ことや「これから起こった」ことだ。ふたりはロシア人で、多分第二次大戦後生まれで、でも時間の認知に異常をきたすほどの記憶障害があるから、例えば本で読んだだけのレオナルド・ダ・ヴィンチと会話した記憶があるし、多分すぐにそれを忘れる。そしてまたいつか彼と会話したことを思い出すだろう。

 する・した・しているが同じこと。彼らがそうなったのはダーチャとよばれる菜園付きセカンドハウスの近くを流れる川で、途轍もなく美しい周囲の光景をボートから長々と見つめすぎたためだという。そのためにかつての自分はシロスイレンに変身し、以降は記憶が〈選択的〉になり、時間が解け、そしてスイレンは見ている目の前で萎びていってしまったという。

日が一日一日と続いて行けるものでしょうか、それって詩的な戯言か何かなんですよ――日の入れ替わりなんてものは〉と彼らは言う。その〈詩的な戯言〉を散文的な現実として生きるわたしたちの医学的知識で断ずるに、彼らふたりは会話する多重人格だ。ふたりは互いに相手の過去、つまり自らの今とこれからを相手に語って聞かせる。相手の語りに意義を唱え、誤りを指摘し、相手の記憶、つまり自らの今とこれからを訂正しあう。

 これは書評だから、そのようにして語られときには書かれていくものを散文的に整理しよう。それは美しいダーチャの日々。障害のために入れられた特殊学校での体験。地理教師サヴルとの交流。何者にもなれずに年老う抑圧的な体験。そして何より、ヴェータという生物学教師への恋情。ふたりは忘却の川レーテの岸辺にある孤独のヨタカの國で、ヴェータへの憧れに幾度も身を焦がす。

 記憶障害は彼らの時間を滅茶苦茶にするだけでなく、ものごとを曖昧にもしている。同じ人物が様々な名で呼ばれ、死者が会話し、起こったことと起きそうだったことは同じことだ。記憶の崩壊が彼らの言語活動を現実から自由にしたのかもしれない。言葉は遊戯的に変身し、それに伴って言葉が指す事物も変容する。それがもたらすのは圧倒的な詩情だ。ポエジアの爆発! 言葉には、小説には、こんなことまでも可能だったのだ。

 著者のソコロフは亡命ロシア人作家とカテゴライズされるひとり。ソ連でジャーナリストをしながら本作を書き上げたのち、同国の文壇はこの小説を許容しないと判断して、七五年にアメリカへと亡命。翌年、この第一長編の出版に至ると、死の前年だったナボコフから作品への惜しみない賛辞を贈られたという。

 実は作中にも〈筆者殿〉という存在が登場する。この筆者はしかし、現実から馬鹿ふたりを書きつける創造主というよりは、ふたりの片割れによる変身のように見える。語り手であると同時に語られ手である彼らは、そのようにして現実を――作者を――消し去っているのかもしれない。ふたりはそうやってこの比類なく美しい小説のなかへと「亡命」しているのかもしれない。

 そういえば次のような挿話がある。野原で楽団がワルツを演奏している。その楽手がひとりずつ、草刈り人夫の大鎌で刈られて消えていく。ひとり消えふたり消え、全員が消えても演奏は鳴り止まない。面目を潰された草刈り人夫は〈泣いては汗塗れの顔を胸の開いた赤シャツの袖で拭う〉。鳴り続けるワルツは昨日までは人間だった誰かだ、と語り手は言う。馬鹿たちによる、クソみたいな現実への、何とも痛快な反逆ではないか。「大鎌」と「赤シャツ」からソ連の国旗を連想するのなら、この「クソみたいな現実」を「クソみたいな政府」と言い換えることも許されよう。

 かつての自分はシロスイレンに変身し、それは目の前でしなびる。筆者殿は作中に登場し、馬鹿たちと語り合う。楽手は刈られ、演奏は残る。この三つは「明らかな現実の消去とその後のポエジー」という構造の換喩たちだ。この換喩技法は本作に籠められている数多の技術の一端でしかない。あなたもこの驚嘆の書へ飛び込んで、現実を忘れ去り、川のほとりで変身してみてはいかがだろうか。


馬鹿たちの学校 単行本
著者 ‏ : ‎ サーシャ・ソコロフ
翻訳 ‏ : 東海 晃久
価格 ‏ : ‎ ¥2,640
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309205534
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309205533
出版社 ‏ : ‎ 河出書房新社
発売日 ‏ : ‎ 2010/12/14

※価格は変動している場合があります。