【書評】『太陽が死んだ日』閻連科

 映画『マッドマックス』シリーズやドラマ『ウォーキング・デッド』のようなポスト・アポカリプス的世界を閻連科が現代中国の農村に置き換えるとこうなる! 文学的な叙述の妙が物語やテーマと不可分に絡み合う! 中国の近代化への風刺や寓意に満ちた挿話たちの背後に欧米のエンターテイメント性を含ませた、大作家の円熟を感じる小説です。翻訳は泉京鹿、谷川毅。


太陽が死んだ日 単行本
著者 ‏ : ‎ 閻連科
翻訳 ‏ : 泉 京鹿, 谷川 毅
価格 ‏ : ‎ ¥3,960
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309208614
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309208619
出版社 ‏ : ‎ 河出書房新社
発売日 ‏ : ‎ 2022/9/27

※価格は変動している場合があります。


 人の意見は一致しない。対立は災厄に際してより顕著になる。人間は「敵」を見出し、先鋭化して集団化する。関東大震災後には、無辜の在日コリアンが一般の日本人たちによって次々に虐殺された。COVID-19のパンデミック後には、陰謀論に基づく政治組織Qアノンが米国議会を占拠した。熱狂は天下の動乱に呼応する。増幅されるのは興奮や共感だけではない。信念までもが根を深くして花を咲かせる。

 おそらく二〇世紀末。中国の片田舎、とある山脈の天辺で、念念という少年がある夜の出来事を天に向けて語っている。それはほんの三ヶ月前のこと、彼の住む小さな村とそれを含む鎮(ここでは人口数千人程度の行政区)に起こった千年に一度の天変、麦刈りに勤しむ7月の夕べが集団的な殺戮の闇へと更けていった、たった一晩の物語だ。

 近隣一帯に寝不足と苛立ちが蔓延していたその宵の口、村に「夢遊」という症状を呈す者が現れた。夢遊にかかったものは眠りながら歩き、夢でも思い続けていることを実行する。目は開いているが、心のなかにあるものだけを見ている。夢遊は珍しい病気だったが、その日は罹る者が相次いだ。

 彼らは初め、ぼんやり歩き回るか麦刈りをするかだった。豊作のその年、雨の前に刈らねば腐る麦が彼らを急かしていた。利益の熱狂が夢にまで延びていたのだ。そのうち、より深い思いをさらけ出す者が現れる。配偶者の不倫相手を殴り殺す男。自殺する老人。覚醒させよう、覚醒していようという努力も虚しく、夜が更けるにつけ一帯は夢遊の人で溢れかえっていく。

 混乱が広がり警察や行政の機能も麻痺すると、やがて覚醒している者たちも法と道徳を踏み外し始める。この夜のことは罪に問われない、と私怨を晴らし、盗み、姦淫する。覚醒者と夢遊者は入り乱れて商店を打ち壊し、徒党を組んで富裕層を襲撃する。

 小説はこの夜が産む多様な挿話を取り上げつつ、同時に鎮全体の状況を加速させていく。魯迅の短編のような寓意と風刺に満ちた挿話たちは、それぞれが暴力や祝祭、利己的でおぞましい行為や災害ユートピア的な雰囲気などを身にまとっているが、夜が更けるにつれそれらは血の臭いを濃くしていくのだ。そして夜明け前ともなると、鎮の状況はのっぴきならぬ領域へと突入している。それは近代国家としての中国建国時の熱狂を再演するような、「敵」と「味方」の底なしの殺し合いだ。

 扇動者が暴力と殺人による階層の転覆と利権の再配分を宣言する様子。その演説を聞いた者たちの浅ましいざわめきが広がっていくさま。麦のように「敵」を刈りあう戦場の凄惨さ。読者はこれらの場面になす術なく立ち会う体験をすることになる。

 この夜を念念はつぶさに見て回る。彼がとりわけ間近で目撃するのは父の罪滅ぼしだ。念念の父母には鎮の近代化事業にまつわる後ろ暗い過去があり、そのため父の心には鬱屈が巣食っていた。夢遊しているのか覚醒しているのか、一介の葬儀用品店店主にすぎない父は鎮を救おうと奔走し、贖罪へと傾倒していく。

 荒廃した世界を描く映画『マッドマックス』シリーズや、ゾンビ溢れる世界で生き残った人間集団を描くドラマ『ウォーキング・デッド』のような、ポスト・アポカリプス作品の現代中国農村版と、とりあえずは紹介できよう。しかしノーベル文学賞もささやかれる大作家による本作の内容はそれだけに収まらない。なかでも目を引く要素は作者と同名の「閻連科」という登場人物だ。

 作中の「閻」も作家だ。彼はスランプで書けなくなっていたが、この夜、覚めながら夢遊するという境地に達することで書けるようになる。夢遊には良い面もあるのだ。しかし念念と共にある出来事に関与した後で、彼は再び書けなくなる。あの夜のことを小説にしてくれと念念に嘆願されても彼は書かない。つまり山頂で天に向かって語っている念念は、書けない作家の代わりにこの小説を物語っているのだ。

 その念念の語りにはバイアスがつきまとっている。彼は他人の体験や内面さえも自分のことのように語るし、自分が関与したいくつかの残酷な出来事を客観的に認識できていない。また彼の価値観は父を敬い家を尊ぶ古風なものだ。物語が利益追求の近代批判や少年の成長譚の体を成しているのも、語り手が念念だからというのが大きいのだろう。

 物語ること――覚めながら夢遊すること――現実の複雑さではなく自分の心の中だけを見ること。書かない老人の「閻」と語る若い念念の対比には、ポスト・トゥルースの時代に災厄を物語ることへの両義的な寓意が込められているのかもしれない。

 念念の語りについてもうひとつ。小説には現実には発生しえない「矛盾」と見えるものまでが置かれている。もしかしたら、とわたしは思う。念念もあの夜、いつのまにか夢遊しており、それが覚醒時の意識とシームレスにつながっているのかもしれないと。そして大きな災厄の当事者となるというのは、否応なく夢遊してしまうような体験なのかもしれないと。しかし念念が本当にシームレスな夢遊をしたかどうかは念念の語りだけからは決めることができない。夢遊したと決めようとするなら、小説の本文ではなくわたしの心のなかだけを見ることになる。それこそ夢遊の産物だ。

 夢遊せざるをえないのは人間の限界なんだろうか。夢遊をさけて黙り込むなら、作中の老作家のように生気なく隠棲するだけになるのだろうか。だとしたら人間は夢遊してでも行動し物語らなければならないのだろう。わたしやこの社会の夢遊が、せめて将来、虐殺へと帰結しないよう祈る。


太陽が死んだ日 単行本
著者 ‏ : ‎ 閻連科
翻訳 ‏ : 泉 京鹿, 谷川 毅
価格 ‏ : ‎ ¥3,960
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309208614
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309208619
出版社 ‏ : ‎ 河出書房新社
発売日 ‏ : ‎ 2022/9/27

※価格は変動している場合があります。