【書評】『愚か者同盟』ジョン・ケネディ・トゥール

 まともに働くなんてのは道徳的退廃だ! 書類の山なんてファイルごと廃棄処分しろ! 商品はひたすら喰いまくれ! 労働の徳をまったく理解しない怪肥満男イグネイシャスが60年代のニューオーリンズを騒がせる。『デヴィッド・ボウイの人生を変えた一〇〇冊』やBBCの重要小説一〇〇選(2019)など、数々の小説リストの常連でありながら日本語訳の無かった名作の待望の翻訳です。訳者は『JR』(ウィリアム・ギャディス著、国書刊行会)でおなじみの木原善彦氏。『フランキスシュタイン : ある愛の物語』(ジャネット・ウィンターソン著、河出書房新社)も同月に発売されたばかり、敬意を超えて呆れるほかない仕事量です。


愚か者同盟 単行本
著者 ‏ : ‎ ジョン・ケネディ・トゥール
翻訳 ‏ : 木原 善彦
価格 ‏ : ‎ ¥4,180
ISBN-10 ‏ : ‎ 4336073643
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4336073648
出版社 ‏ : ‎ 国書刊行会
発売日 ‏ : ‎ 2022/7/28

※価格は変動している場合があります。


 働きたくない。社会との接点なんてボランティアと趣味だけで十分だ。労働者をやりたくないし経営者だって御免被る。資産家であればなってやらないこともないが、汚い金やコネなら要らない。突然なんらかの権威ある賞を受賞して、高潔さと財産を保証されながら悠々自適に暮らせないものか。

 こんな浅ましい欲求を持つわたしでも、不思議なことに労働の効用は理解している。働けば賃金と社会生活の基盤を得られるし、能力を高めたり挑戦したりできるし、自分を含むほとんどの人から「無職」と後ろ指をさされずに済む。労働は役に立つうえ道徳的だ。わたしはより大きな功利のために個々の仕事をサボることはできても、労働自体を無価値と思うことはできない。そう思える者がいるとすれば余程のアナーキストかニヒリスト、または前代未聞の変人だけだろう。

 さて、本書の主人公イグネイシャスこそ、その「前代未聞の変人」である。ボサボサの髪、ポテトのかけらが詰まったヒゲ、風船のような頭。緑の耳あて付きハンチング帽、縞のフランネルシャツ、ぶかぶかのツイードズボン。三〇歳で、大学院を出ているが働く気はない。お気に入りの習慣はテレビの子供向け番組や目当ての女優が出る映画を見て悪口雑言を噴き上げること。他人や社会を断罪するために中世の神学的価値観を持ち出すが、学問的正確性は疑わしい。責任を問われれば言い逃れと嘘と脅しを並べ立て、何かにつけて被害者ぶり、間食や自慰を始めると止まらない。活動家の友人にマウントを取るためだけに工場労働者デモの組織と扇動まで行うような突飛な行動力と偏狭なプライドまで持つ。暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、嫉妬、傲慢と、七つの大罪を腹に詰め込んだようなおデブちゃんだ。

 強烈な主人公だが他の登場人物も負けてない。母親にして未亡人のアイリーンはアル中気味の役立たずで、家計のために息子の精神病院送りを検討する。うだつのあがらぬ市警のマンクーソ巡査は職場内いじめを受けており、珍奇な仮装でのパトロールを強要される。ストリップクラブの店主ダーリーンは違法な雇用や良からぬ副業に手を染め、服飾工場の二代目社長は一切の経営を放棄してスポーツ観戦に勤しみ、年金生活者は反共の陰謀論で頭を一杯にし、資産家の同性愛者は乱痴気騒ぎにしか興味がなく、女性活動家は米国を股にかけた性の解放を実践する。クソみたいな社会の底辺には最低賃金やそれ以下の雇用を押しつけられた黒人たちが沈められている。

 労働というプリズムに分光された近現代の縮図のような彼ら。ドストエフスキー作品ならばそれぞれの立場や思想が独自の旋律を奏でだし、絡み合うそれらが崇高で感傷的なドラマとなって響くだろう。しかし本作は異なる。

 なにしろイグネイシャスから出るのはげっぷ音だ。崇高と感傷より低俗と噴飯こそがよく似合う。母の借金のために働かざるをえなくなったこのおデブちゃんは、戯画的な登場人物たちのど真ん中を大波立てて突っ切って、社会に溜まった澱をもうもうと舞わせる。街角や職場で彼が繰り出す異常な行動は思いもよらぬ余波を生み、関係する者全員を皮肉な方向へ押し流していく。ブラックなユーモアは人物造形だけでなく筋の運びにまで及んでおり、因果律は個々人の意図や思惑と無関係に働いて、幸不幸はなんともあっけらかんと彼らの間を行き来するのだ。そして噴き上げられた社会の澱は、人間なんぞの意志とは関係なく、ほんのちょっぴり浚われていく。

 本作は執筆こそ60年代だったものの、出版されたのは作者の自死から11年後、1980年になってからだった。翌1981年にはピューリッツァー賞を獲得し、以降は世界中で翻訳され、愛され、米文学のマスターピースと見なされてきた。それらの経緯は木原善彦による訳者あとがきに詳しい。ステレオタイプを誇張された登場人物たちからは当時の雰囲気やマイノリティへの視線が伺える。日本語圏から「隠されていた」名作の待望の翻訳だ。鳴り物入りで盛大にお迎えしたい。


愚か者同盟【分冊版】上巻 Kindle版
著者 ‏ : ‎ ジョン・ケネディ・トゥール
翻訳 ‏ : 木原 善彦
価格 ‏ : ‎ ¥1,672
ASIN ‏ : ‎ B0B824ZMK8
出版社 ‏ : ‎ 国書刊行会
発売日 ‏ : ‎ 2022/7/29

※価格は変動している場合があります。