【書評】『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

 2022年にはブッカー賞の最終候補に残るなど、文壇デビュー以降、破竹の勢いが止まらない川上未映子氏。彼女の初の恋愛小説という触れ込みの本作『すべて真夜中の恋人たち』(初出「群像」2011年9月号)を、「言葉」という観点から紹介します。


すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫) Kindle版
著者 ‏ : ‎ 川上 未映子
価格 ‏ : ‎ ¥748
ASIN ‏ : ‎ B00PAO1R1C
出版社 ‏ : ‎ 講談社
発売日 ‏ : ‎ 2014/10/15

※価格は変動している場合があります。


 従順で孤独、声を挙げない女性のもとに、真夜中の光のような言葉がやってくるまで。長く休眠していた種子がついに発芽し、自立するまでのその期間。

 自分の言葉を持たない心が、占領されたあとで、利用されたあとで、もう何年も石のようだった心が、他人の言葉とアルコールですこしづつふやけ、萌芽していく。芽はセクシュアルな呼び掛けへと伸び、根はロマンティックな夢を吸いあげる。伸びた蔓に若葉が芽吹くと、それはようやく生まれはじめた自分の言葉で、まだつたない、借り物のようなそれらを口にし、護り、光の方へと、身を捩って格闘する。そうしていつか、他のなにもののためでもない、自分がすっくりと立つための言葉がやってくる。

 入江冬子はこの冬で35歳になる。彼女は〈言葉を交わしたりふつうに会話することさえうまくできず、小さなころからそういったことに自信のなかった〉人間で、3年前まで小さな会社に勤めていたけれど、会話や人付き合いが人並みにこなせないために孤立し、居心地の悪かったところに機会を得て、現在はフリーランスの校閲者をしている。東京で一人暮らし、趣味がなく、それどころかプライベートと呼べるものがない。仕事のあと、眠るまでの数時間になにもすることがなく、昨日までのその時間に自分がなにをしていたかも思い出せない。

 頭蓋骨のなかの空虚のような彼女だが、ひとつだけ楽しみがある。それは誕生日の深夜にひとりで散歩することだ。年に一度、その夜だけは、目に映る街のすべてが自分になにかを語りかけ、そこに〈わたしにだけわかるようなひそやかな意味がそっと隠されて〉いて、〈夜の光だけが、わたしの誕生日をひそかに祝ってくれている〉ように感じられる。その夜の散歩のことだけを楽しみに、一年の残りの日々、彼女はずっとひとりきりで仕事をして過ごしている。

 冬子は一度だけ性交したことがある。それは高3の夏、相手は週に一度電話を掛けてきては一方的に喋る同級生男子で、同意はなかった。彼の部屋で彼女は「いやだ」と3回言った。相手は射精のあと、《君をみてるとね、ほんとうにいらいらするんだよ》《自分の考えも、自分の言葉も持たないで、ぼんやりして生きてる》と言い、それ以降電話を掛けてくることもなくなった。

 声を挙げないものは簡単に他人に利用されてしまうし、抵抗の声を繰り返し無視されたものは自分の言葉が無力だと学習してしまう。冬子の固く閉ざされた心には自分の言葉がない。それは誕生日の夜の散歩のことだけが入っている硬い殻だ。校閲の仕事で大量の原稿や資料に目を通すけれど、それは他人の間違いを探すために読む自分と関係のない言葉たちだから、仕事が終わればすぐに抜け去り、消えてしまう。

 しかし、アルコールでその殻を柔らかくして伸び出ようとするなにかがある。最初は弱々しく、目的も分かっていないそれを誘引するのは恋愛――セクシュアルとロマンティック双方の引力――だ。二人の男女との交わりのなかでそれは起こる。

 一人は大手出版社に勤務する石川聖。もう一人はカルチャーセンターで出会った50代男性の三束さん。聖は同い年の女性で、優秀な仕事人で、歯に衣を着せず、男性と奔放に関係する。冬子をフリーランスに誘ったのも彼女だ。三束さんは女子高の物理教師で、親切で礼儀正しく、彼に会う冬子がいつも酩酊していても《人には、色んな事情があると思うので》とそれを指摘もしない。冬子のぎこちない会話のペースに合わせ、質疑応答のようなそれを穏やかに楽しむ、ぱっとしない外見の初老だ。

 冬子は聖を友人と思い、三束さんには誕生日の真夜中の光のようななにかを感じる。けれども聖には他人を支配し利用する傾向があり、三束さんに会う勇気はアルコールなしには出てこない。彼女は聖の影響を受けながらすこしづつ自分の殻を破り、酒量を増やしながら三束さんへの思いを育て、自覚していく。

 利用されるだけかもしれない聖との剣呑な関係の刺激と、過度なアルコールというアディクティカルな養分で、自分のなかではなく他人のなかにある真夜中の光の方へ心を伸ばしていく冬子。やがてある夜、彼女は〈それが何なのか見当もつかない、何のための言葉なのかさっぱりわからない、けれどわたしの胸にやってきて、それから消えようとしない言葉〉をノートに書き留める。優しく彼女を満たす、この上なく美しいその言葉。彼女がその言葉から得る実感は、小説を誠実に読んだ読者に差し出されている。


すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫) Kindle版
著者 ‏ : ‎ 川上 未映子
価格 ‏ : ‎ ¥748
ASIN ‏ : ‎ B00PAO1R1C
出版社 ‏ : ‎ 講談社
発売日 ‏ : ‎ 2014/10/15

※価格は変動している場合があります。