【書評】『エルサレム』ゴンサロ・M・タヴァレス 現代ポルトガルの最重要作家と呼ばれるゴンサロ・M・タヴァレス。05年にポルトガルで出版されるや彼の知名度を一気に押し上げた傑作『エルサレム』は、歴史と共にある闇を読者の足裏や鼻腔に押し付けてくる、そんな切迫感のある小説です。 『エルサレム』単行本著者 : ゴンサロ・M・タヴァレス翻訳 : 木下眞穂価格 : ¥3245ISBN-10 : 4309208282ISBN-13 : 978-4309208282出版社 : 河出書房新社発売日 : 2021/5/24 5月29日、夜の底。怖れの顕現が彼らに街をさまよわせた。死の病の痛みに駆り立てられたミリア。彼女の元夫で、殴られた女性のポルノ写真に欲情したテオドール。銃と恐怖を手放せなくなった帰還兵ヒンネルク。彼らの記憶と現在に充満する死と暴力の気配は、人類史の深みから染み出したものか。 3人それぞれを追う者がひとりずつ。ミリアの元恋人で、右足の不自由な元統合失調症患者エルンスト。テオドールの息子で、下半身の萎えた虚弱児カース。ヒンネルクをヒモとして養う娼婦ハンナ。彼らの内に、ほんの数時間後の朝日を予感する者はいない。 彼らを取り巻く闇について、テオドールならこう言うだろう。それは歴史上常にあった非人間的な悪で、規則を持って増減し、人類を突き動かすものだと。歴史は苦痛の授受のあいだでバランスをとって速度を保つのであり、強制収容所の死体の山、人間からすべての尊厳を剥ぎ取って残る無名の物質は、暴力という歴史のエンジンの排気ガスなのだと。 物質――テオドールに離縁されたミリアは受動的な物質を嫌う。例えば靴だ。それは命令を待つ卑屈な奴隷だから。同時に彼女は物質を信頼してもいる。物体に触れる彼女の手はペニスを握るように卑猥だ。 手 ―― 〈手の感覚がない〉とミリアは入院中の精神病棟で言った、〈ガラスで手を割れば手の感覚がもどるんじゃないかな〉とも。旧約聖書詩篇一三七編五節を彼女は覚えこんでいる、《エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい》。 忘却 ―― 彼女を治療していた院長ゴンペルツにとり精神病の完治とは〈昔の自分に戻る帰り道を完全に忘れ去る〉ことだった。入院中の医療事故のためミリアの余命はせいぜい数ヶ月、それ以上生きるには奇跡に頼るしかない。彼女はおとぎ話より聖書を好み、6歳までに読んだすべてを信じている。彼女は聖書を、エルサレムの一節を、その言葉をけして忘れない。 言葉 ―― 生き延びるのに必要なのは言葉ではなく暴力だと、帰還兵ヒンネルクならそう言うだろう。有効な防御手段とは権利や憲法ではなく銃弾なのだとも。名詞や動詞もうんざりな彼は食事すら嫌う、それは命令された待機のような、「物質」に成り下がるような凡庸な行為だから。しかし今夜、彼は特権的な食事の可能性に興奮している。 ミリアが病棟でガラスを割りたがったとき、傍でそれを見ていた男が〈魂の感覚がないなら、魂でガラスを割れよ〉と彼女を揶揄した。暴力と死が息吹く5月のこの夜、彼女の願いはただひとつだけ、教会へ入ることだ。朝まだき、重く閉ざされた教会へ入るため彼女は魂でガラスを割るのかもしれない。 小説は32の章に分かたれ、それぞれがさらにセクションを持つ。頻繁な分断は言葉への暴力のようだ、しかしそれが可能にする速度がある。読者はこの夜の昏さと速度とを知るだろう。 ここまでの紹介で抽象的なモチーフの連なる難解な小説と思われたかもしれない。しかし即物的でスキャンダラスな要素も多く含んでおり、登場人物を使った俗なパスティーシュ――例えば週刊少年誌の人気格闘マンガ『グラップラー刃牙』における、世界一強い男を決める格闘トーナメントの選手入場シーン――なども意外に似合う。 ◇ さあ、まもなく開始となります運命の夜。参加者は6名。全選手入場です!!!! 人生の核となる言葉は痛み! 暴力的な美貌の暴力嫌悪者、「わたしの右手は萎えているか?」余命わずかの姦通狂女、ミリアだァーーーー!!! 世界には俺への賠償義務があるッ! 虐殺の予言はこの男が完成させた!! 寝取られ男、テオドール・ブスベックだァーーーー!!! あの子どもを殺せないのは単に〈遠すぎる〉から。目の下の異様な隈は殺人者の徴か。助けを求められれば素直に嬉しい、帰還兵ヒンネルク・オブストだァッ!!! 俺の存在を脅かす追手を、俺は克服するッ! 足は悪いが顔はいい。百発百中男、エルンスト・スペングラー!!! 虚弱? 吃音? 関係ねえ! 祖母を叩いて育ったんだ、俺を置いてく奴ァゆるさない! カース・ブスベックだァ!!! 紫のアイメイクは男を支配する道具。弱き命令者、ハンナ!!! 夜明けまでに発生する殺人は二件。読み飛ばし厳禁、最後まで存分にお楽しみ下さい! 『エルサレム』Kindle版著者 : ゴンサロ・M・タヴァレス翻訳 : 木下眞穂価格 : ¥3083ASIN : B09873DP9P出版社 : 河出書房新社発売日 : 2021/5/24 ※価格は変動している場合があります。 他の書評 投稿ナビゲーション 【書評】『星の時』クラリッセ・リスペクトル【書評】『貝に続く場所にて』石沢麻依