【書評】『貝に続く場所にて』石沢麻依

第165回芥川賞受賞作。東日本大震災の記憶とそこから9年という距離感とに、若い美術史家の目を通して静謐かつ誠実に相対する、石沢麻依氏のデビュー作を800字でご紹介。


『貝に続く場所にて』ハードカバー
著者 ‏ : ‎ 石沢 麻依
価格 ‏ : ‎ ¥1540
ISBN-10 ‏ : ‎ 406524188X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065241882
出版社 ‏ : ‎ 講談社
発売日 ‏ : ‎ 2021/7/9


 ゲッティンゲンで過去に会うのは不思議でもない、「惑星の小径」があるのだから。

 その小径には太陽と惑星を示すオブジェが順に配置されている。1キロ程の全長は精確に太陽系の20億分の1の縮尺比率というから、そこを歩く者は光速より4倍は速い計算になる。過去の光を見るには充分な速度だ。

 2020年夏。そんな街に住む美術史研究者の〈わたし〉は、〈野宮〉というかつての研究室の後輩を駅まで迎えに行く。9年前、彼は東日本大震災で津波にさらわれ、人生の痕跡ごと消えた。彼の記憶に整理もつけられないまま〈わたし〉は日常へ戻ったが、その野宮が生者と変わらぬ存在感でこの街を訪れ、しかもしばらく滞在するという。

 野宮との再会後、街に奇妙な噂が流れだす。惑星の小径の先で、以前撤去されたはずの冥王星のオブジェがときおり目撃されるというのだ。さらにその噂と前後して、〈わたし〉の同居人の飼い犬〈トリュフ犬〉が「海王星」近くの森で奇妙な物を掘り出すようになった。杖、玩具の剣、ダーツの矢など、誰かの記憶の遺物のような物たちだ。不可解な現象は勢いを増していき、いつしか街全体が過去と現在のモザイクと化していく。

 研究者として訓練された〈わたし〉の目は街に蓄積された歴史を美術史という巨人の肩から見晴るかし、遠近法で像を結ぼうとする。線遠近法には消失点という基準が必要だが、〈わたし〉の記憶と思考でその役割をするのは野宮の消失だ。しかし「消失」であるはずの野宮は目の前で穏やかに息づく。

 光、記憶、思考の遠近法は現前する死者と記憶のために乱れる。置いてきた悲しみとの対峙を迫られた〈わたし〉と仲間たちは、やがて巡礼のような歩みへと出発する。

 帆立貝はかつて巡礼の通行手形だった。読者も〈わたし〉と共に巡礼路を行くことになろう。旅の心配は無用、〈トリュフ犬〉があなたの分の貝まで掘り出してくれているから。


【書影】貝に続く場所にて

『貝に続く場所にて』Kindle版
著者 ‏ : ‎ 石沢 麻依
価格 ‏ : ‎ ¥1463
ASIN ‏ : ‎ B097MB32N9
出版社 ‏ : ‎ 講談社
発売日 ‏ : ‎ 2021/7/9

※価格は変動している場合があります。