【書評】『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀 あまりにも完成されていたデビュー作『バルタザールの遍歴』から三十年超、佐藤亜紀の力量は今なお増大するばかり。このひとはどこまで高みへ登るのでしょうか。2022年の最新作にして大傑作のご紹介です。 『喜べ、幸いなる魂よ』単行本著者 : 佐藤 亜紀価格 : ¥2,090ISBN-10 : 4041114861ISBN-13 : 978-4041114865出版社 : KADOKAWA発売日 : 2022/3/2 ※価格は変動している場合があります。 「お金と自分ひとりの部屋」と聞いて、またか、と思うかもしれない。しかし女性が小説を書くための条件としてヴァージニア・ウルフが挙げたこのフレーズの身も蓋もなさは、90年以上経ったいまでも有効なままだ。ウルフは数百年を振り返り、男性なら得られたチャンスに恵まれなかった女性作家たちに思いを馳せる。彼女は様々な観点から自論を展開するが、『喜べ、幸いなる魂よ』の読者なら、この論が欠くポイントに思い至るだろう。つまり――男性に独占されがちな富、個室とお金を可能にするその富は、どこから来てどこへ行くのか? 富はどこから生まれるのか。そもそも富とはなんなのか。これらの疑問に答えるのは経済学者の仕事だ。しかし、戦慄してほしい、佐藤亜紀は小説にその答えを書き込んだ。のみならず、それによって小説世界を成立させるという離れ業までやり遂げた。一八世紀のフランドル地方が舞台の、ある「女性作家」とその「パートナー」を中心とした、ジャンルに押し込めるなら歴史小説と呼ばれるだろう作品においてだ。 フランドルは現在のベルギー北部にあたる。亜麻を中心とした繊維産業で古くから栄え、溜め込まれた富は自治特権、宗教、教育、再生産を支えた。物語はこれらを背景にして始まり、視点人物の成長につれてその中へと深く入り込んでいく。 父の死と母の再婚によりヤンは十歳で里子に出された。彼は亜麻糸商のファン・デール家に引き取られ、そこでひとつ歳下の双子姉弟と出会う。弟のテオはとびきり優秀で、姉のヤネケはさらに抜群の天才だった。すでに大学の数学博士と手紙のやりとりをしていた――ただし、弟の名前で。この時代、女性は大学に入学することさえできなかった。 ひとつ屋根の下で三人は暮らす。ヤンは双子に追いつこうと努力する。テオは彼と連れ立って遊び、ヤネケは実験や観察に巻き込む。数年後、ヤンはヤネケに誘われるままに性交し、やがて妊娠が発覚する。ヤンは親子三人の所帯を夢見るが、郊外へ送られたヤネケは出産のあとで生家には戻らず、ベギン会という女性だけの共同体に入って自活を始めてしまう。 ベギン会はフランドル地方を中心に欧州各地に実在していたものだ。修道会に似ており、基本的に男子禁制だが、会員の身分は一般信徒でより自由があり、自分の資産も持てた。ヤネケは会員だった叔母を頼って転がり込み、そこで「自分ひとりの部屋」を得る。本棚を作り付け、持ち込んだ大量の書物と原稿で部屋をいっぱいにして、自分のしたいこととすべきことを猛然とこなし始める。 弟の名前で数学論文を出版し、彗星の軌道計算をするヤネケ。番頭格になったヤンが見せにくる帳簿をチェックし、彼が自分以外の妻を迎えるしかない理由を諭すヤネケ。地域の学校の教鞭をとり、子供たちのために皆既日蝕の観察会を開くヤネケ。共感や慣習よりも知的好奇心と生産性で行動し、〈人でなし〉とたびたび形容される彼女は、伝統的な女性の役割を放棄しつつ、自分の才を活かしきって周囲に貢献していく。 ヤネケとヤンの関係は一般的な恋愛や家族の枠には収まらない。ヤンのヤネケに対する愛情と、ヤネケのヤンに対するそれは非対称だ。所帯を持てなかったことに傷ついたヤンの心は「自分ひとりの部屋」で活動するヤネケとの関わりのなかで、怒りや悲しみを経て少しづつ成熟する。 ヤネケは数学や自然科学のみならず、ミクロ/マクロ経済学まで精通する。麻の紡績機を試作して産業革命が迫っていることをヤンに示唆し、産業構造の変化がもたらす富の流通量の低下と格差の拡大を予言する。不換紙幣の本質――本位貨幣よりもより多くの生産力を富に変えられる――についてパンフレットを出版し、フランス革命政府の財政を分析する。一方のヤンは度重なる家業の危機をヤネケと協力して乗り越えながら商売を拡大し、亜麻の買付から織布の生産と輸出までを一本化して、市の財政にも深く関わっていく。ヤネケとヤンはこの時代と地域における富の流れの航海士と操舵手のようだ。ふたりは街全体の教育と福祉と生産性の妥協点までも引き上げていく。 ふたりが明らかにしながら渡っていく富の流れ。そのなかに登場人物の誰もがいる。自立した/自立していない幾人もの女性たち。家父長制を様々に内面化した男たち。男性が独占しがちな富や、男性が富を独占しがちな社会システムは、彼らを幸福にしているのだろうか。鎖のような男性の重圧をヤンは体験する。同性愛者もノンバイナリも、それぞれの幸福な居場所と関係を見出そうと格闘する。ホモソーシャルもシスターフッドもヘイトクライムも富の流れの中で描かれる。ヤンはやがてヤネケとの関係が、伝統的でも対称的でもないが、稀有で幸福なパートナー関係だと気がつく。 物語終盤、フランス革命が起こり、フランドル地方も大きな変革を迎える。フランス共和国軍の占領を受けたヤネケたちは、政府による富の愚昧な蕩尽と無知蒙昧なミソジニーの被害を受ける。中世以降の富の蓄積によって先進地域の住人でいられた彼らは、これ以降、近代化を後退として体験することになるのだ。ベギン会、ひいてはヤネケの「自分ひとりの部屋」を可能たらしめた基盤も消えていくのだろう。 本書は18世紀後半のフランドル地方という歴史的条件を縦横無尽に活かして富の流れとジェンダーの関係を描く、歴史小説、教養小説、恋愛小説の顔を併せ持った、凄まじいまでの傑作だ。驚異というよりない。 『喜べ、幸いなる魂よ』 (角川書店単行本) Kindle版著者 : 佐藤 亜紀価格 : ¥1,881ASIN : B09SH2MC4J出版社 : KADOKAWA発売日 : 2022/3/2 ※価格は変動している場合があります。 他の書評 投稿ナビゲーション 【書評】『サバイバー』チャック・パラニューク【書評】『雌犬』ピラール・キンタナ