【書評】『雌犬』ピラール・キンタナ いくつもの抑圧と困難の底にある人と犬との関係――現代ラテンアメリカ文学を代表する作家のひとり、ピラール・キンタナの代表作『雌犬』。2017年に出版されるやすぐ評判になり、コロンビアのビブリオテカ小説賞を受賞。15ヵ国語に翻訳され、2020年の全米図書賞翻訳部門の最終選考にも残った本作は、コロンビアの僻地という取り残されたような場所を舞台にしながら、現代的なさまざまの問題の交差を描く、痛切な悲劇です。 雌犬 単行本著者 : ピラール・キンタナ翻訳 : 村岡 直子価格 : ¥2,640ISBN-10 : 4336073171ISBN-13 : 978-4336073174出版社 : 国書刊行会発売日 : 2022/4/25 ※価格は変動している場合があります。 犬には魂がない、と言われたことがある。幼少時に家族ごとブラジルへ移住し、酷薄な農園での契約期間を終えてアマゾン川を何千キロも遡り、ようやくたどり着いた地の果てのような土地で自分たちの農園を拓いた発言主の現在の家族は、すでに日本語を解さない世代しかいない。久しぶりに現れた日本人のわたしを自宅へと招待し、鶏と猫と犬たちが群居するパティオで娘に作らせた昼食をふるまった後、家族の記憶と日本語の両方を思い出しながらの会話のなかで、最も印象に残っているのが冒頭の言葉だ。 魂がないのは文字が読めないから、と説明した彼は、最近、神と魂について研究していると言う。ポルトガル語聖書を読み、黙思する。そういう時間が人間の善性なのだと言う。残飯で腹を満たした犬たちが周囲で昼寝している。頻繁にくしゃみをし、虫に集られ放題で、くつろいだ様子なのにどこか素っ気ない印象なのは、彼らが一度も主人に撫でられに行かないからだと気がつく。 なるほど、あなたに魂があるから犬にはないんですね、とは言えなかった。日本語もポルトガル語も厳しい習得環境だったのは想像に難くない。聖書を読めるまでの努力を積み、ひとり読解する時間を恩寵のように受け止めている彼に、「魂の有無を識字能力で決めるのは自身の経験や感情のあまりにも素朴な投影ではないでしょうか」とは言えなかった。 今も後悔がある。そこの犬たちが医療から遠ざけられているのは明白だった。また、娘への接し方が常に命令するようだったのも気になった。同時に彼の背景も思う。彼は僻地の、家族経営の農園という閉鎖環境で育つしかなかった。移住は日本政府の国策で、敗戦後の引揚者とベビーブームによる人口増加への対策だった。日本の弱者が異国でマイノリティとして育ち、その人に残る価値観がさらに弱い立場の女性や犬たちを抑圧している。それをどう伝えればよいか分からなかった。裕福な社会――彼を「棄民」した国――から来た者による倫理的なマウント行為にも思えた。それでも対話を試みるべきだったと今は思う。 後悔ばかりのこのエピソードを思い出したのは、ピラール・キンタナ『雌犬』を読んだからだ。コロンビアの太平洋沿岸にある僻村の、さらに外れに住むダマリスという貧しい黒人女性を主人公にしたこの小説でもまた、人と犬との関係は、いくつもの困難や問題の成り行きとしてある。 ダマリスは行きがかりから、生後まもない雌犬を引き取る。彼女はもうすぐ四十歳で、それは〈女が乾く年ごろ〉つまり妊娠不能になる年齢だと思っている。そういう言葉を聞いて育ったのだ。彼女は妊娠を望んでいた。わずかな貯蓄も呪術医への支払いにあてた。これ以上は無駄だと呪術医から伝えられたとき、自分を〈女性として恥ずかしい、ぽんこつの生殖機能の持ち主〉と感じた。 雌犬と出会った帰り道、彼女はこの子を飼い犬に冷たい夫から守ってみせると決意する。娘が生まれたら、と用意していた名前をつけ、ブラジャーの内に入れて保護する。雌犬は順調に育ち、ダマリスは娘のように溺愛することに満足を覚える。 しかしある日、雌犬はジャングルへと脱走する。もう死んだ、と諦めた頃に帰ってはきたものの、それ以降、雌犬はダマリスの思いをたびたび裏切るようになってしまう。彼らの擬似的な母娘関係は、密林に放置された廃屋のように急速に傷み、軋んでいく。 妊娠できなかったこと、女性であること、黒人であること、貧困であること、高等教育を受けていないこと、僻地に住んでいること。ひとつひとつの困難は致命的なものではない。しかし幾層もの抑圧は、ダマリスの魂を確実に蝕んでいる。そして彼女はあまりにも素朴に欲求や価値観を雌犬へ投影する。終盤に待ち受ける出来事の悲痛さは比類ない。虐げられた人間は自身の魂をどのように扱い、同時に他者の魂をいかに無視することか。心して読んでほしい。 わたしはダマリスに「それは投影ですよ」なんて言えない。積み重なった困難のなかでこうなってしまった彼女と、さらに弱い立場の雌犬。作者の筆致は簡潔で力強く、女性の視点から不妊を描くならこれだけのものが付随して書かれなければならないと確信しているかのようだ。女性、人種、貧困、母娘関係、動物倫理などの現代的なトピックが、南米の僻村でこそ交差する、これは21世紀最新の悲劇の姿だ。 雌犬 Kindle版著者 : ピラール・キンタナ翻訳 : 村岡 直子価格 : ¥2,112ASIN : B09YCW9HF1出版社 : 国書刊行会発売日 : 2022/4/19 ※価格は変動している場合があります。 他の書評 投稿ナビゲーション 【書評】『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀【書評】『乾いた人びと』グラシリアノ・ハーモス