【書評】『乾いた人びと』グラシリアノ・ハーモス 小説家にしてジャーナリスト、そして政治犯として逮捕されたこともあったグラシリアノ・ハーモス。1930年代のブラジルで最も重要な作家の一人と見なされる彼の作品は、社会問題の構造的な理解に基づいた視線と、乾いた簡潔な写実主義的文体が特徴となっています。1936年、ハーモスは共産主義者であるとして投獄され、一年後に証拠不十分で釈放されました。その翌年に発表されたのがこの『乾いた人びと』(1938)です。水声社《ブラジル現代文学コレクション》に加わったこの一冊を、舞台となるブラジル北東部の特異性を入り口にしてご案内いたします。 『乾いた人びと』著者 : グラシリアノ・ハーモス翻訳 : 高橋都彦価格 : ¥2000+税ISBN:978-4-8010-0623-2 C0397出版社 : 水声社発売日 : 2022年2月上旬 水声社への直接注文はこちら ブラジル北東部のセルトン(Sertão / 後背地)と呼ばれる乾燥した内陸地域は、ブラジルの芸術作品における特異なモチーフの産出地となっている。それはセルトンが経済的、文化的に豊かな場所だからではない。その逆に、あまりにも貧しく過酷な土地だからだ。 セルトンについてはなにも知らない、という方も多いかもしれない。けれど、ここ数年に日本で触れられるようになったブラジルの作品にもそれらは現れているから、例を挙げればすぐ、すでに知っていたことに気がつくのではないかと思う。 例えば映画『バクラウ 地図から消された村』(2019)。現代のブラジル北東部を舞台に、SF・ホラー・アクション・西部劇のごたまぜを、ジョン・カーペンターの曲にのせて血染めにしていくこの怪作は、ブラジル文化を意識せずに見ても強烈に面白いけれど、カンガセイロ(Cangaceiro)と呼ばれるこの地方の伝統的なアウトローに関する知識があるとより楽しめる。 現在のブラジル国土は16世紀以降、主にポルトガルの植民地だった。国家としては19世紀初頭に独立して君主制となり、19世紀末に共和制へ移行した。しかし、政治体制こそ近代化されたものの、北東部のような地方では国家の法の力が弱く、白人の大農園主による封建制がほとんどそのまま残されていた。農園の労働者の生活や教育の水準は低いままに留まり、痩せた土壌、大農園主による搾取、さらには度重なる旱魃のため、生命の維持すら困難となることも多かった。 大農園主たちの搾取の背景には、彼らが雇った私兵集団や、地方公権力との癒着があった。労働者は家族で農場や牧場の管理を任されるが、旱魃となれば食うや食わずの生活となり、生き延びるために農園を放棄して移住した。セルトンをさまよって移住先を見つけようとする者もいれば、都市部へ出てより近代的な労働者になろうとする者もいた。宗教指導者につき従う狂信徒になる者もいれば、武装して徒党を組み農村を襲撃するようになる者さえいた。この武装強盗のことをカンガセイロと呼ぶ。 カンガセイロたちの活動は20世紀の半ばにまで及ぶ。彼らが生まれた原因は深刻な社会問題が放置され続けたことであり、その活動は法の力が弱い地域で抑圧され続けた住民たちの防衛的な反応として説明できる。彼らの実態はさまざまだった。ただの武装強盗集団と言っていい者たちもいたし、大農園主と結びついて民衆からの搾取に加担した者たちもいた。自警集団として公的に認められたものも例外的にいたし、大農園主や政府関係の機関を狙う義賊的な者たちもいた。最も有名なカンガセイロはランピアオンと呼ばれる男だ。彼は最大100人規模の部隊を率いて当局の準軍組織を何度も打ち破り、武装強盗というだけでなく、アナーキーな武装運動の指導者と目された。彼と彼の仲間たちは1938年に機関銃で武装した警察部隊によって掃討され、それ以降、カンガセイロたちの活動は急速に萎んでいった。 ブラジルの芸術作品においてはカンガセイロは好意的に描かれることが多い。一例として、ブラジルでは知らぬ者のないコメディ映画『Auto da comparecida』(英題『A Dog’s Will』2000, 日本未公開)を紹介したい。道徳劇の要素が強いこの作品は、1930年代初頭の北東部を舞台に、ジョアン・グリロという名前の伝統的な大衆向けキャラクター(権威の後ろ盾を一切持たない、貧困層の道化的人物)の活躍を描いたものだ。カンガセイロはこの映画の中盤から登場する。彼らは主人公の住む農村を襲撃して主要登場人物のほとんどを殺す。主人公の機転でカンガセイロのリーダーも死ぬが、部下による報復で主人公もまた殺されてしまう。 死んだ彼らを悪魔、キリスト、聖母マリアの三者による審判が待ち受けている。天国行きか地獄送りか、悪魔が生前の罪状を読み上げ、マリアが弁護し、キリストが判決を下していく。破戒僧や姦婦の審判のあと、カンガセイロのリーダーの順番が来ると、キリストは罪状の読み上げも始まらないうちから「これはわたしに任せなさい」と言う。この男は8歳のときに両親を警察に殺されているから、その後の罪はそれによってすでに贖われている。さらに、その事件が原因で狂ってしまっているから、その後の犯罪の責任能力はない。このようにキリストは説明し、彼の襲撃によって死んだ者たちの前であっさりとそのカンガセイロを天国行きにする。 ブラジル人にするとこれは突飛な展開ではないらしい。北東部のコルデル文学という民衆向けの伝統的な小冊子や、西部劇の影響を受けたブラジル映画、ブラジルの漫画等で、カンガセイロの表象は現実とは異なる神話的なものへと発展してきた。そこでの彼らは英雄として描かれることが多い。彼らの略奪や殺戮は公権力と癒着した抑圧者たちへの私的制裁であり、法が正常に執行されない環境での正義であり、自由と独立を求める貧困層の武力闘争と解釈される。現実のカンガセイロは基本的には人を殺して回る残酷な武装強盗だ。しかし、社会の状況があまりにも抑圧的なために、民衆の願望は創作物の中の彼らをヒーローに仕立て、免罪していったのだ。 カンガセイロに寄せられてきたこうしたイメージが映画『バクラウ』にも大きく影響していることは、すでに視聴された方には明白だろう。あの村人たちの由来、気質、行動、立場――なすすべなく法の外に置かれ、地方の公権力も敵対的な存在でしかなく、地縁的なコミュニティ単位で武装して防衛せねばならない――は、日本人には突拍子もないものに見えるかもしれないが、実はブラジルの歴史に基づく伝統的な想像力を受け継いだものなのだ。 話をカンガセイロからセルトンへ戻す。2021年に日本で出版され、第8回日本翻訳大賞となった『星の時』(クラリッセ・リスペクトル 著、福嶋伸洋 訳、河出書房新社)もまた、セルトンから生まれた小説と言ってよいように思う。小説の舞台は南東部の大都市リオ・デ・ジャネイロだが、物語の主人公マカベーアの出身地は北東部だ。彼女は出生地では食べていくこともできないため、移住労働者となることを選んだ。 『星の時』は二重構造を持っている。マカベーアの物語とは別に、その物語を書いている小説家ロドリーゴの独白や逡巡が頻繁に挿入される。このロドリーゴの出身地も北東部だ。彼もかつては貧しかったが、現在は中流階級に属していて、哀れなマカベーアを不幸な物語のえじきにしている自分の搾取性を自覚しており、物語を書き進めることを何度もためらう。著者のリスペクトルもまた北東部の出身だから、ロドリーゴのためらいは彼女自信のそれと重なっていると言っていいように思う。 ロドリーゴがマカベーアに向ける視線は細やかで同情的だが、同時に容赦なく現実的だ。マカベーアがささやかな幸福を見出すたび、むしろ、貧困層の生活のどうにもならなさや、彼らを搾取して成り立っている社会の構造的な残酷さがひしひしと伝わってくる。小説の終末部は社会的・歴史的な問題意識から個人の魂に関わるような感情まで、さまざまなものに満ちている。理性的な認識、怒り、諦念、罪の意識、その上でこの社会に自分は生きるという意志。さらには「これがブラジルなんです」という作家の気概までも読み取れるように思う。第八回日本翻訳大賞(2022)も獲得した小説なので気になった方はぜひ読んでほしい。稚拙ながらわたしが書いた書評もある。 さて、このようにブラジルの社会問題や、芸術作品における特異なモチーフの産出地、背景、あるいは骨子としてあるセルトンだが、それらを生み出した過酷な生活それ自体はどんなものだったのだろう。それを真正面から描いたのが本稿の主役である小説『乾いた人びと』だ。 1938年に発表されたこの小説は、ある牛飼いの一家が移住のために乾ききったセルトンを放浪している場面から始まる。旱魃時のセルトンにおける移住がどれだけ悲惨なものだったか、その想像の助けとなる絵画を一枚紹介したい。 Retirantes (1944), Candido Portinari これは20世紀ブラジルを代表する画家のひとり、カンヂード・ポルチナリ(Candido Portinari, 1903-1962)の《ヘチランチス》(Retirantes / 旱魃を逃れる移住者, 1944)という作品だ。幽霊のような相貌の一家が乾燥しきった荒野を歩いている。全財産を持ち出しただろうのに、彼らには衣服すら満足に揃っていない。彼らの顔、身体、衣服は奇妙に白ばんでいて、あらゆる箇所から白骨化が始まっているようでもある。全員が衰弱して見えるが、それは特に子供たちに顕著だ。抱きかかえられた裸の幼児は骨と皮ばかりの背中をこちらに見せつけているし、成人女性に抱きかかえられた乳児はもはや目以外は無機物のようだ。帽子を被った子供の顔はすでに髑髏のようだし、右側の子供は汚染された水を飲むしかなかったのだろう、膨らんだ腹部は住血吸虫症を示している。彼らはすでに人間的な表情を保つこともできない段階にいるようだ。顔は崩れかけ、感情らしい感情もないように見える。語ることを拒否しているのかその余力もないのか、全員の口が閉じられている。老人の右目が上空に向けられているが、それはきっと、雨雲への期待が今もまた裏切られ続けているところなのだろう。人間らしさを維持できなくなっている彼らに最後まで残っている人間的な感情は絶望で、それすらほんの少しなのだ。 小説『乾いた人びと』でセルトンをさまよっている牛飼い一家は四人と一匹だ。父親のファビアーノ、母親のヴィトリア、まだ小さい男の子が二人、そして牝犬のバレイア。ヴィトリアは下の子を背負い、ブリキのトランクを頭に乗せている。ファビアノは獲物袋と火打石銃を肩にかけ、ひょうたんをベルトに下げて、がに股で歩く。その後を上の子と犬のバレイアがついていく。 上の子がめまいで倒れるとファビアノは怒鳴り、叩き、足手まといに思う。殺意に駆られるが決心がつかない。子供の身体に触れると炎天下にもかかわらず死体のように冷たくなっていて、それでようやく憐れみを思い出し、背負って歩きだす。何日もサンダルで歩いているためにファビアノの踵や足指の間はひび割れており、動物の蹄のようになっている。昨日までは一匹のオウムも家族にいたが、それは皆で食べてしまった。ヴィトリアはそのオウムを締めるとき、〈言葉を話さず役に立たないのだと自分に言い聞かせて〉自分を正当化した。しかしそのオウムが人間の言葉を話さなかったのは、普段からこの一家がほとんど会話をしていなかったからだ。人間よりも動物に近いようなこの一家は暑さと乾きと飢えに苦しみながら緩慢に旅を続けていく。 小説は三人称形式で十三の章に分かれている。著者のグラシリアノ・ハーモスは社会派リアリズムで知られており、『星の時』のリスペクトルへと連なる心理小説の書き手でもあるから、小説内の描写は社会状況から光景、出来事、人物の内面まで、現実を写そうと試みていると言ってよいのだろう。ひとつひとつの章は独立した短編として読むことも可能だが、十三章全体で牛飼い一家の生活の一サイクル――ひとつの旱魃から次の旱魃まで――を描いてもいるから、連作短編と通常の小説の中間のような構成と言える。 最初の章「引っ越し」の最後で、一家は放棄された牧場にたどり着き、そこで雨雲の兆候を見つける。ファビアノは〈牧場はよみがえるだろう――そしておれ、ファビアノは牛飼いに、言ってみればこの世界の主人になるんだ〉と希望を抱く。確かにその牧場は再生し、次章以降で一家はそこの管理人となっているのだが、もちろん〈世界の主人〉などになれてはいない。 続く章「ファビアノ」では、行方不明の牝牛を牧場周辺で探す彼の心理が綴られていく。彼は馴染み深い仕事に復帰したことに満足し《ファビアノ、お前は一人前の人間だ》と叫ぶが、すぐに〈他人の土地に住み、他人の動物の世話をしてる〉にすぎないと思い直し、《お前は動物だ》と訂正してつぶやく。彼は人間との会話よりも動物との言葉を介さないやりとりが好きで、町の住人の言葉は長く難しいと思っている。上の子が彼になにか質問するが、彼は質問の意味さえ分からず、子どもがものを知りたがっていることにうんざりして叱り飛ばす。 次章の「留置場」では、町へ買い出しに来たファビアノが、値段や品質を誤魔化されるのを極度に警戒しながら買い物をし、酒を飲み、警官から博打に誘われ、金を使い果たし、さらに警官の八つ当たりで留置場に入れられ、めった打ちにあい、そこで一晩を過ごす様子が綴られる。無教育な彼は思考が苦手で自分の考えをまとめることができないが、それでもその間ずっと考え続けている。自分の考えを言えないこと、動物のようであること、喋れなかったオウムを食べたこと、家族がなければ野盗の群れに入って警官や権力者たちを撃ち殺すだろうこと。そういったことどもが彼の内面に渦巻いている。 心理が描かれるのはファビアノだけではない。「ヴィトリアさん」の章では、夫がハンモックで寝ている間に食事の準備をするヴィトリアが、新しいベッドの購入に執着し、次の旱魃に不安を抱き、オウムを思い出し、節約と金策の計画を立てるさまが描かれる。「年下の少年」の章では、皮の馬具を身に着けて馬を調教するファビアノがいかに憧れの対象であるかが、幼児の視点から活き活きと描写される。「年上の少年」では地獄という言葉の意味が分からず、両親に尋ねると殴られてしまった上の子が、それでも断片的な知識と未熟な経験で地獄を想像し、牝犬のバレイアに貧しい語彙で語って聞かせる様子が綴られる。 牝犬のバレイアもまた語り手で、その語りは犬らしい視点や思考に満ちている。バレイアはノミのことを〈小さい、主人のいない虫〉と呼ぶ。従順で単純で優しい彼女にとって、主人の有無は世界の大きな基準なのだ。九番目の章「バレイア」では語りの大部分が彼女の視点からなされる。ここに書かれている幾重もの服従とその悲痛さにぜひ驚いてほしい。従順さがいかに危険で、同時に甘美であるか、この章はとても簡潔に教えてくれる。 最終章「新天地を求めて」では旱魃が再びセルトンを襲い、一家はまた放浪の旅へ出ることになる。前回の繰り返しのような放浪だが、家族は減っており、わずかだが歳もとっている。放浪の途中、ファビアノとヴィトリアは新しい生活を思い描く。想像の中で彼らは都市に近い農園で働き、子供たちを学校へやる。子供たちは難しい言葉を習い、自分たちは年老いて犬のように役に立たなくなるだろう。夫婦はそこまでイメージして恐怖を覚える。都市のような文明化された場所では、無教育で言葉を知らない彼らはあのオウムと大差ない存在になってしまうのだ。〈奥地は、ファビアノやヴィトリアさんやふたりの少年のように、強く粗野な人たちを町に送ることだろう〉という一文でこの小説は終わる。実際に、北東部は都市部への無教育な移住労働者を生み出し続けた。それがリスペクトル『星の時』の背景となっていることはすでに説明した通りだ。 『乾いた人びと』は1963年に映画化もされている。監督はシネマ・ノーヴォの中心人物であったネルソン・ペレイラ・ドス・サントス。タイトルは原作と同じ『Vidas secas』で、小説のエピソードの順番を入れ替えたり、省略したり、組み合わせたりなどしているものの、かなり忠実な映像化となっている。が、ひとつだけ、明確に小説にはない要素がある。それはカンガセイロが登場することだ。 小説と同じようにファビアノは悪徳警官によって留置場に入れられ、殴られる。が、映画ではそこに、同じ房に先に入っていた若い男が彼を気遣う場面が付け加えられている。翌日、馬に乗り武装したカンガセイロたちが町にやってきて、仲間の身柄を要求する。すると同房の若い男が解放され、ファビアノもついでに解放される。ファビアノは留置場の外で待っていた家族と合流し、痛む身体を引きずって牧場へ帰ろうとする。町外れの水場に寄ると、先程のカンガセイロの一団がいる。よろよろと歩く彼に同情したのか、同房だった若い男がファビアノを自分の馬に乗せ、自分の銃を持たせて馬を引く。馬上からの眺めは先程までの地べたを這いずるようなものとは違い、スムーズで、世界を見下ろすようだ。彼らはやがて分かれ道にさしかかる。右の道にはカンガセイロたち、左の道には家族たちがいる。馬が止まり、若い男がファビアノに「一緒に来るか?」と誘いかける。彼は逡巡の後で馬と銃を若い男に返し、去っていくカンガセイロたちを見送る。 日本語字幕付きで見られる機会は少ないが、同じくシネマ・ノーヴォの代表的な監督であるグラウベル・ローシャの『黒い神と白い悪魔』(1964)や『アントニオ・ダス・モルテス』(1969)とはまた違う質感のセルトンやカンガセイロがここには映っている。 以上でハーモス『乾いた人びと』の書評を終わる。ブラジル文学の重要作であり、ブラジルの社会と文化をより深く理解する助けとなるこの作品に、ぜひ手を伸ばしてほしい。 おまけ 本稿に登場した映画の予告編たち。 『バクラウ 地図から消された村』予告編 “O Auto da Compadecida” Trailer “Vidas Secas” Trailer 貼っておいてなんだけど、↑の予告編は音楽と編集が入ってしまっていて、本作の魅力をかなり損なっていると思う。とくに音楽。 『黒い神と白い悪魔』予告編 『アントニオ・ダス・モルテス』予告編 『乾いた人びと』著者 : グラシリアノ・ハーモス翻訳 : 高橋都彦価格 : ¥2000+税ISBN:978-4-8010-0623-2 C0397出版社 : 水声社発売日 : 2022年2月上旬 水声社への直接注文はこちら 他の書評 投稿ナビゲーション 【書評】『雌犬』ピラール・キンタナ【書評】『天才たちの日課 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